菅江真澄は岩舘の浦を出発。ませうち川を渡り椿の浦を通り湯沢に滞在しました

菅江真澄の足跡を訪ねる|岩館を出発しませうち川(真瀬川)の高い橋を渡る

文化4年(1807)年3月の初め、菅江真澄岩館(八森町)で船にのり、笛滝立岩、滝の間、横間などを訪れている。「浦の笛滝」の旅が7月10日岩館の笛滝を見たところで終わっている。この間の資料はありませんので、その行動は不明である。

真澄は、3月22日名残りおしいが、岩館の浦を出発した。
ませうち川(真瀬川)の高い橋を渡ると立石の浦・茂浦の部落が軒をつらねていた。
真澄のスケッチを見るとませうち川、現在真瀬川、の急流に橋がかかっている様子が見られます。この橋を渡って椿の浦に入ったのでしょう。

※菅江真澄の図絵は岩崎美術社発行 菅江真澄民族図絵 中巻から引用

菅江真澄は、立石の浦について次のように記述している。
「一本杉という立岩のかたわらに経塚がある。円仁が仏供養し、法華経・千手陀羅尼などを小石に書いておさめられたとう話を浦人達が伝えていた。
土をかきやってみると、梵字がひとつ書かれている小石を二つ三つ得た。
尊い僧の深い志を思い、遠いむかしをしのんだ。村に出ると初桜がみられた」

※菅江真澄遊覧記3 内田武編訳 雪の道奥雪の出羽路から引用

立石の浦から椿の浦についた。椿埼・椿山と呼ばれる場所は沢山ある。男鹿の浦(男鹿市)、津軽の田沢深浦の艫作の岬(深浦市)など。なぜ寒い土地に椿が北上したのかはこちらをご覧ください。

菅江真澄は、椿の浦にもむかしは海榴の森(椿の群落)があったが、薪として伐りつくして一本もなくなり、ただ浦の名前としてのこっていると記述している。

椿の浦で雄島・雌島の二つがおしどりが浮いている雄島を眺めている。

椿の浦を通り鹿浦(かのうら)の坂をおりて泊川を渡り浜田についた。
日も暮れたので浜田の三左衛門の家に泊まった。

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