真澄は岩舘の浦から能代に向かう途中椿の群落している椿の浦を通っています

菅江真澄の足跡を訪ねる|椿と八百丘尼伝承

菅江真澄が岩舘から能代に向かう途中椿の群落している椿の浦を通っています。
椿の浦には異国船が近づくのを警備する監視所が高い丘につくられていた。
真澄は椿の浦はささやかな住まいまで家の中がきれいで、特に厠(便所)に注目している。真澄が描いたスケッチを見ると波が打ち寄せる波打ちぎわに厠(トイレ)が立ち並んでいる。

(岩崎美術社発行菅江真澄民族絵図中巻より転載)

菅江真澄は、椿の浦、むかし海榴(つばき)ひしひしと生ひたりしよしをいへいり。と歌っている。昔は椿が生い茂ったいたようです。
真澄が見た八森(現八峰町)の椿は薪として伐採されたか明治以降公害で枯れてしまったか現在椿の群落は残されていない。

椿は、日本列島ではもともと温暖な南の土地の固有種である。なぜ北国の東北まで椿が広がったのか単純に自然が運んだと言ってしまえばロマンがない。
民族学者柳田国男は、宗教者によって北国まで伝わったのではないかと仮説している。

八百丘尼伝承(椿の伝承)

柳田邦夫は、椿を運んだ運搬者は婦人で死者の霊を口寄せするイタコや遊行の女たちが運んだのではないかと仮説している。八百丘尼伝承によるものか?

ウイキペディアでは八百丘尼伝承を下記のように記している。

「ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。」

同じような不老不死伝説は各地に残っている。

私が現在住んでいる春日井市に円福寺というお寺があり境内に「八百比丘尼堂」がある。しかもこの地は八百比丘尼生誕の地であると伝えられている。

ウイキペディアでは円福寺について下記のように記している。

「昔、円福寺のすぐそばまで海が迫っていた。ある日、この海で奇妙な魚が捕れた。魚の体に人の顔を持つそれは、通りがかりの僧によると人魚というもので、庚申さまに供えて祭ればご利益があるという。庚申さまのお祭りが終わっても、気持ち悪いので人魚を食べる者はいなかった。ただ一人、それの正体を知らない小さな娘を除いて。それから17年、娘は大変美しく成長した。しかし、いつまでも老化しないことを気持ち悪がられ、結婚には恵まれなかった。よその村から夫を迎えても、結局は夫の死をなすすべなく見送るだけであった。時は流れ、海は陸地となり、娘は比丘尼となって諸国を巡礼した。800歳のとき若狭にたどり着き、深い洞窟に入ったままゆくえ不明になった。」

椿の北上は若狭から始まっているので不老不死信仰「八百丘尼伝承」を伝えたイタコが椿を各地に植樹したのではないか。なぜなら八百丘尼を祭ったお堂にある椿を持った八百丘尼像があると書かれている。

秋田県八峰町泊川にある尼子岩は、「八百丘尼」伝説に由来しているのではないでしょうか?

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