真澄は大間越街道で津軽の殿様が参勤交代で休憩し湧水を飲んだ場所で休憩

菅江真澄の足跡を訪ねる|お殿様も飲んだ湧水「お殿水」

菅江真澄も通った大間越街道は、津軽藩主の江戸参勤交代の道であった。そもそも津軽藩時代の当初は、この大間越口が藩主の江戸往来の参勤道であったようだ。しかし南部藩との確執があって、羽州街道につながる最短ルートである内陸の碇ヶ関口を参勤道とするのを遠慮していたようです。幕藩体制が落ち着いてからは、津軽藩主は、代々、内陸の碇ヶ関口を参勤道とするようになり海岸線をゆく大間越口は疎遠になっていった。
文政四年(1821年)九代藩主寧親(やすちか)のとき、世に名高い相馬大作事件が起きた。津軽藩主暗殺計画である。相馬大作が津軽藩主寧親の江戸参勤の帰途、錠ヶ関口でテロを決行する計画でした。この情報が弘前城中に漏れ伝わり、浦の道である大間越街道へ迂回して難を逃れたのです。以来大間越街道が津軽藩参勤道となりました。

ある時、津軽藩主が大間越から八森道を通り、江戸に向かく途中人気のない原で籠を止め休憩した。その原の道端に湧いている水を飲んで「甘露、甘露」と褒め称えたと言われている。それ以来、白神山地に源を発する秘境の湧水をお殿水と呼んだ。

(菅原真澄みちのく漂流より)

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