菅江真澄は享和元年11月6日岩舘の浦(現八峰町)でハタハタ漁を見学しています

菅江真澄の足跡を訪ねる|岩舘の浦ではたはた漁見学

菅江真澄のスケッチはたはた漁

享和元(1801)年11月4日、菅江真澄回船問屋竹越貞易にともなわれて、津軽領深浦(青森県西津軽郡)を出発し日本海沿いに藩境を越え、岩舘(八峰町)に入っています。真澄は四十八歳になっていた。16年ぶりの秋田は、はたはた漁の季節でした。

11月6日 暁天の星を頂いて、漁師たちは起きたので、私も、ともに起きて顔を洗った。鰰の網曳きをするといって、沢山の小舟が漕ぎ出て荒れ狂う磯の大波の大波のなかお、やすやすと乗りまわっている。岸辺の岩の上では、男や女が群がって立ち「かなたよ、こなたよ」と手を振り、波にからだを濡らしながら叫んで、魚群のいる箇所を舟に教えている。
(雪の道奥雪の出羽路より)

三河国(愛知県)出身の真澄には、北国の魚が珍しかったのでしょうか。5種類に分けられるというはたはたの特徴や、4つの漁法、販路についてまでも詳細に書き留めています。また、6枚のスケッチを残しました。


秋田名物八森ハタハタ、男鹿ブリコ、能代春慶、檜山納豆、大館曲げワッパ」と秋田音頭のトップを行く八森ハタハタ。秋田音頭は江戸時代にまとまったともされていますが、菅江真澄がスケッチした「ぶりこを捕る浦乙女」の図絵には、興味深い言葉が添えられていす。

“八森はたはた雄鹿(おが)ぶりこ”
という諺のあり、八森の八盛の岩舘浦なん岩いと多くしてぶりこ浪にうちあててなからまたからさる多し。歌の地口がすでに存在していたことを示しています。

親羅三郎義光の孫、佐竹昌義が常陸の太田常に移った時、海岸で珍魚が沢山浮き上がった。昌義はその魚の頭が旗に似ているところから、ハタハタと命名したと八森町誌に記されている。


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