菅江真澄は岩舘の浦から滝ノ間、横間、茂浦を通り椿の浦で雄島を眺める

享和元年(1801年)11月 真澄は岩舘の浦で鰰の漁を見学してから浦伝いに進み小入川の部落に入った。

部落の人がこの山陰に銀山があったなどと話している。これからたどる歩坂(かちざか)といいうところは凍っていて人も馬も、越えにくかったので、三沢渡をして滝ノ間村をへて横間村にきた。馬背内川(真瀬川)の早瀬に丸木をならべて、長く高い橋が渡されている。これをこわごわふんでわたり、立石という村にでた。茂浦という村と続いていて、境界線がはっきりしない。
菅江真澄が岩舘から横間村に入る時馬背内川(現在の真瀬川)を渡っている。
菅江真澄の図絵を見ると当時の旅人がどれ程危険だったかがわかる。

菅江真澄の図絵馬背内川は岩崎美術社発行の菅江真澄民族絵図を引用しています。

ここからしばらく行くと、離れ磯のように隔たってみえるのを雄島という。

菅江真澄は、『雪の道奥雪の出羽路』にて、雄島について「この島のなかに清らかな泉があるというが、いわゆる沖の井が、この浦にもあったのだろうか」と記している。しかし、雄島には清水のわく泉は実際にはない。ただし、雄じまと雌じまの山裾の合うあたりに、岩の割れ目が凹状態になっており、中に小さな砂利が敷き詰められてあたかも井戸のような所があり、そこに雨水がたまり上陸した人が使ったとも考えられる。
(ウイキペディアより引用)

真澄が耳にした銀山は八森銀山で江戸時代には、出入りが厳重に監視されていた。鉱石の荷物は、必ず届け出され、大工や堀子、諸役人共に荷隠しがないように代わる代わる役人に監視されていた。稼ぎの者が坑口から出る際には、出口の小屋で帯を解き裸で検査された。町頭の仁左衛門が役人の目をしのんで雄島に遊びに行ったところ、遊びに来ていた役人に見つかり、町頭罷免になっていた。
(ウイキペディアより引用)

八森銀山については別途紹介します。

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