秋田県立博物館から徒歩20分 秋田県立博物館重要文化財の旧奈良家住宅を見学

菅江真澄の足跡を訪ねる|旧奈良家住宅を見学

秋田県立博物館を訪ねた後分館の旧奈良家住宅を訪ねました。
旧奈良家住宅は、博物館から800m(徒歩15分)です。
この日は気温が高く分館に徒歩で行くのを止め博物館の受付でタクシーを頼みました。
分館にタクシーを待たせ15分程の見学でした。


奈良家は、弘治年間(1555~1558)に大和国(現在の奈良県)生駒山山麗小泉村から現在の潟上市昭和豊川に移住し、江戸時代初期には約10km南にある現在の地に移転したと伝えられています。

現在の旧奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763)に9代善政(喜兵衛)によって建てられました。建物が全面に突き出す形は両中門作りと呼ばれ、秋田県中央海岸部の代表的な農家建築です。
奈良家の場合は、正面左側が上手の中門(座敷中門)、右手が下手の中門(厩中門)になっています。

菅江真澄は、文化8年(1811)遠く秋田市金足(男潟)ため池の片岸を奈良家9代目当主喜平衛を訪ねたと記されている。その時漂泊の旅人・菅江真澄は58歳でした。旧奈良家住宅には2つの入り口があり正面左側が上手中門で身分のある客が出入りし右側が下手の中門(厩中門)で身分の低い人や日常の出入り口となっていた。菅江真澄は、身分のない漂泊者あったから下手中門から入ったと言われている。

下手中門から入ると広い土間がある。真澄は、ここで草鞋を脱ぎ、足をすすいでから、奥左の「おえ」と呼ばれる接客用の部屋にあがった。真澄の伝承によれば、奈良家に滞在中、上座敷と呼ばれる奥六畳の間を書斎として使っていたという。当主は、身分のない漂泊者であった真澄を大変手厚くもてなしていたことが伺える。


「秋田県散歩」(司馬遼太郎著、朝日文庫)には、次のように記されている。
 「真澄は半生、権力者というものに近づかなかった。しかし、佐竹義和という殿様だけは、例外だった。・・・本来、真澄は旅に死ぬことを覚悟していただろう。死ねば、彼の書いたものは当然散逸する。義和に会うことによって、それらが良質の筆写本となり、後世に残ることになった。とすれば、この奈良家で那珂通博に出会ったことは、世界の民俗学上の一事件といっていい。」

旧奈良家住宅では写真と取るだけでじっくり見学をするゆとりがなかった。
しかし江戸時代の豪農住宅を見学して当時の生活ぶりが伺えた。次回はもっと時間をかけて見学したいと思った。旧奈良家住宅からタクシーで追分駅に向かいJR男鹿線で秋田駅に向かった。

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