秋田県立博物館内特別展示室にある菅江真澄資料| 真澄が残した数々の書物等を展示

菅江真澄の足跡を訪ねる|菅江真澄資料センター訪問

コロナ禍で移動が制限されている中7月16日から22日まで私のふるさと秋田県八森(現八峰町)を旅してきました。旅の目的は、今から200年前菅江真澄が故郷八森(八峰町)に残した足跡をスケッチを頼りに旅することです。

秋田県立博物館

名古屋から新幹線で東京経由秋田に入り最初に訪れたのは秋田県立博物館菅江真澄資料センターです。秋田県立博物館がある追分は、秋田駅からJR奥羽本線で20分程で到着。追分駅から博物館までは徒歩20分と書かれていたのでタクシーも見当たらないので徒歩で行くことにしました。しかし炎天下の徒歩で博物館まで行くのはあまりにも無謀でした。金足農業高等学校の敷地で休んだり木陰の下を歩いたり40分もかかりました。

博物館のロビー

県立博物館はコロナの影響か閑散としていました。まず館内のレストラン腹ごしらえ。
菅江真澄資料センター展示室はロビー左手の階段を下りると菅江真澄が出迎えてくれます。

資料センター入り口
資料センター内部
資料センター内部 真澄の肖像画が見学できます。

写真撮影は禁止されていたので館内の様子をパンフレットから転載しました。

私が注目したのは真澄がなぜ故郷を後にして46年間も旅を続けたのかその旅の引き金は何だったのかです。真澄は二度と故郷三河地方に帰ることなく七十六歳で秋田県仙北の地で亡くなりました。

菅江真澄を研究している秋田県立博物館菅江真澄資料センターによると次のようなことが引き金になったのではないかと想像しています。(1)家庭上の問題 (2)学問上の問題(3)情報収集説(4)業病説(5)失恋説(6)名勝旧跡取材説などです。
私は(1)家庭上の問題と(4)業病説(6)名勝旧跡取材説ではないかと推測しています。
真澄の母は若くして亡くなり三年忌を過ぎた頃父親は再婚したと記しています。家庭的な悩みがあり旅に出るきっかけになったのではないかと想像します。業病説はレブラ(癩病)であったため、これの悪化を防ぐため、気温の低い東北へ向かったとする説もあります。真澄は終生頭巾を被っていたので「常被りの真澄」と呼ばれておりました。真澄が亡くなった際、頭巾を脱がせて確かめようとする不届きものもいましたがそっとしておこうと頭巾を脱がせなかったと伝えられています。
(3)の情報収集説と(6)名所旧跡取材説は真澄が好奇心旺盛で見知らぬ世界に興味をもっていたのではないかと思います。当時の北海道・東北は外国に行くのと同じだった。真澄は、現在の旅行ライターのような面もっていたのではないか。江戸時代の人々の生活を図絵として残したのは後世にありのままの姿を残したかったのか、ただ単にスケッチを楽しんだのかは分かりません。しかし真澄の図絵は現在の写真撮影と同じで今では貴重な資料となっています。当時の北海道・東北の人々がどのような生活を営んでいたかを知る上で大変貴重な資料です。

故郷八森には、享和元年(1801年)文化3年(1806年)文化4年(1807年)の3度訪れています。
※菅江真澄の肖像画は「秋田県立博物館蔵」許可を頂いて転載しました。

菅江真澄資料センターを見学後旧奈良家を訪れます。

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