菅江真澄は文化4年(1807)八峰町の大久保岱集落を通り手這坂を訪れています

菅江真澄も訪れた 八峰町手這坂

江戸時代の紀行家・菅江真澄が、文化4年(1807年)、54歳の頃に八峰町の大久保岱集落を通って手這坂へ訪れたと、真澄遊覧記の『雄賀良能多奇(おがらのたき)』に記されています。  

菅江真澄が手這坂を訪れた当時は、4、5軒の家からなる集落であったと記されている。
手這坂の上にたって眺めると咲き乱れる桃の花が咲いていた。流れをさかのぼって洞のうちの隠れ家を見つけたという中国の故事(桃花源記)もこのようであったろうと「桃源郷のようだ」と感動した。
「ここに誰 世々咲く桃に かくろくひて おくゆかしけに 栖(す)めるひと村」と和歌を残しています。

岩子村(峰浜村・現八峰町)の梨の花は、山風に雪が降るように散りみだれていた。
大窪平(大久保岱)にはいって、村長のところで休憩し、何かと語り合う。
この村には宇治という姓がたいそう多い。山城の国(京都)の宇治の人が、若い時からここにきて住、田をひらいたということである。その子孫の本家は田村坊というが、一族の者はみな宇治姓を名乗っている。その宇治の人の先祖が祀った内外の社(伊勢神宮)も木々が深く年を経ている。
桃の花盛りと聞いて、しばらく行くと手這坂というところにでた。
家が四,五軒、川岸の桃の花園にかくててあった。
菅江真澄遊覧記(おがらの滝)より

現在の桃源郷 手這坂の集落
私が訪れた数年前は、茅葺の家が数軒あった。現在は2軒ほどと聞いている。

手這坂の集落
杉並木
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