真澄は、文化3年(1806)2月能代を出立し白神が岳を望む高い丘に登る

菅江真澄の足跡を訪ねる|白神山地と蝦夷の接点

菅江真澄は文化三年(1806年)2月能代(秋田県能代市)を出立して、高い丘に登ると、海原がうらうらと望まれて、たちわたる霞のなかに雪深い陸奥との国境が見渡せた。



津軽の白神が岳(西津軽郡岩崎村)が間近く見えた。

東蝦夷の国(北海道)にシリベツがあり、津軽の青森の堤川の川辺にも埼川(しりべつ)がある。

おなじ津軽の十三の港(西津軽郡)に近くたっひの沼(田光沼)があり、三厩の浦(東津軽郡)の西にもたっひの埼(竜飛埼)がある。

松前の島(北海道)には白神の磯があるが、また津軽の深浦(西津軽郡)に近い磯山にも白神という地名がある。

このように(蝦夷地と)同じ地名が多いのは、遠い昔はこのあたりにももっぱら蝦夷人が住んでいたのであろうと知られる。

菅江真澄遊覧記4 内田武編訳 かすみ月星より引用

白神山地と蝦夷人 

東北の地に沢山の蝦夷人が住んでいたことが地名から伺える。
秋田県八峰町にも蝦夷人がつけた地名が沢山残っているそうです。

母谷(もや)山 -聖なる山を意味しアイヌ語の「モイク」がなまった方言 目名潟にある。

チゴキ埼 -この丘で阿部比羅夫将軍が蝦夷と凌ぎ(しのぎ)を削って戦ったと言われ、凌ぎ(しのぎ)がなまってチゴキと言われるようになった。

オカムイ埼 -秋田県岩館(八峰町)の小入川の海に突き出た岩礁の呼び名

加賀家文書

秋田県八森(八峰町)加賀家の加賀家文書はアイヌ語研究で知られている。
加賀家文書とは、蝦夷地の場所請負人の用人として働いていた秋田県八森(八峰町)の加賀家の人々が記録し代々受け継がれてきた資料のことです。特に初代徳兵衛の次男伝蔵(三代目)が加賀家文書の大部分を執筆したと言われいます。
加賀家文書の資料は下記のサイトでご覧になれます。

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