菅江真澄は2度目に八峰町を訪れた時瀑布山天滝寺(白瀑神社)を訪問

菅江真澄の足跡を訪ねる|瀑布山天滝寺(白瀑神社)

江戸時代の紀行家・菅江真澄は、文化4年(1807年)白瀑神社を訪れている。
菅江真澄遊覧記の「雪の道奥・雪の出羽路」に下記のように記述している。

「冬枯れのなかに松杉が茂って、神さびてみえる村に寺があり、瀑布山天滝寺という。文徳天皇の仁寿年間のはじめに、円仁大師がつくられたという仏像で、不動尊、釈迦牟尼仏、観世音菩薩、地蔵大師が祀られてあったとか。そのむかしは河堂村といって宝塔寺という寺があったそうだが、天慶7年甲辰8月の大地震で倒れ、堂塔も村の住家もすっかり埋没してしまったので、ここにあった村を温泉沢(ゆのさわ)にうつした。そこに八つの森があったので八森という村名にした。その宝塔寺はどこにあったのであろうか」とある。 (秋田県八森町誌より引用)

白滝神社

おがらの滝
3月23日湯沢の宿駅への路を朝早く出て、野原を分けて行った。
世間では、湯沢をもっぱら八森というのは、大母爺杜(おおもやもり)小母爺杜(こもやもり)狐杜小糠杜(こぬかもり)祖神杜佐々杜種津杜(たなつもり)の八つがあるのであるのでいうのである。
滝の明王堂に詣でようと、左手の路を行くと、鋤をかついだ女が「八森のもやのとんけの八重桜、枝ははちもり葉は能代、花は久保田の城と咲く」と声おもしろく山唄というものをうたっていた。祓川をわって、不動尊の堂にぬかずいた。

菅江真澄遊覧記3 内田武編訳から引用

菅井真澄遊覧記では八つの森があったので村名を八森、部落を大地震後温泉沢(ゆのさわ)に移したと記さている。ふるさと八森は、温泉沢(ゆのさわ)と呼ばれていたようです。

菅江真澄は、1801年の『雪の道奥雪の出羽路』、1803年の『浦の笛瀧』、1807年の『雄賀良能多奇』で白瀑神社を訪れ白瀑神社のいわれを記録している。
菅江真澄は「昔は河堂村といって、宝塔寺という寺があったが、天慶7年(944年)8月の大地震で倒れ、塔も村の住居も埋没したので村を温泉沢村にうつし、そこに8つの森があったので八森という村名にした」と記録している。また
昔は沢山の堂があったが、地震後に地蔵菩薩は土の中から掘り出されたが、観世音菩薩は水底に失われた」としている。(ウイキペディアより引用)

白滝神社の神輿の滝浴び

 白瀑神社が最も盛り上がるのが、8月1日の例大祭で行われる「みこしの滝浴び」です。元々は普通の神輿を担いで町内を練り歩く行事でしたが、神輿を担ぐ男衆があまりに暑くて、思わず滝壺に飛び込んだことにより、現在では、水しぶきを浴びながら滝壺で神輿をかつぐのが恒例となりました。 

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