菅江真澄は宝暦4年三河国に生まれる 江戸中期から後期にかけての執筆家です

菅江真澄 プロフィール

秋田県立博物館蔵菅江真澄自画像

「宝暦4年(1754年)菅江真澄は、三河国(愛知県)に生まれました。江戸中期から後期にかけての執筆家。生年には宝暦3年説もありあます。姓は白井、本名英二。文化の半ばから「菅井真澄」の姓名をつかう。名を知之秀超・英雄などどいう。平井真澄は、秋田で暮らすようになってからの姓名です。
家職は祈祷施薬白太夫(菅原道真公に仕えた家臣)の家筋であった。父の名は、秀真。三河国岡崎(愛知県岡崎市)に生まれそだったが、長じてからは定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生をおくった。
少年時代は、岡崎城下成就院の稚児となり、植田義方和学の階梯を示された。思春期に尾張に移り、国学者で熱田神宮の詞官栗田知周の知遇を得、また名古屋藩の楽園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつんだ。安永6年(1777年)に、尾張の儒者丹羽謝庵から漢学を学んだ。」
(朝日歴史人物事典より引用しました)
菅江真澄の自画像は秋田県立博物館蔵より掲載許可を頂いています。

三河・尾張ですごした天明3年の初め頃まで、さまざまな人と出会い、そこからいろいろな学問を学びました。天明3年(1783年)30歳の時、真澄は三河を発ち長野へと旅たちました。以後新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道を巡り、48歳の時秋田に入りました。その後28年間78歳で亡くなるまで秋田で過ごしました。信濃では『伊那の中路』を初めとする紀行や随筆、陸奥・出羽では『霞む駒形』率土が浜つはひ』『秋田の仮寝』『小野のふるさと』といった紀行や素描本を綴り、蝦夷ではアイヌの人々の生活を『えぞのてぶり』に写した。真澄が辿った八森での足跡は「雪の道奥雪の出羽路」「おがらの滝」で詳細に記述されている。
真澄は、享和元年(1801年)から八森に4度訪れています。

菅江真澄遊覧記|1801年(享和元年)「雪の道奥雪の出羽路」津軽から出羽に入った記録

深浦の竹越氏や多くの人に送られ、途中岩舘村ハタハタ漁の様子や伝説等を記録、能代に11月6日に到着した。能代では6日間滞在し、山王社や住吉社の縁起を詳細に記録した。一日市に一泊し、13日に土崎湊に来て滞在した。津軽藩から土崎まで真澄を見送りした人もいる。年の終わりに雪ぞりに乗って久保田城下に入った。市内の市場の様子を記録する。

菅江真澄遊覧記|1803年(享和3年)の暮から次の年の夏まで能代付近を遊覧

1803年(享和3年)の暮から次の年の夏まで、能代付近の遊覧を飛び飛びに記録したもの。後年自著に編集したと書いている。1803年の末に(合川町)川井村にいた。川井村と李台の正月行事を記録する。

菅江真澄遊覧記|1806年(文化3年)4月能代から岩舘方面に遊覧

能代の住吉八幡の藤を見た後、萩の台から、長崎に出て五月雨沼の五月雨大明神に参拝する。5月には向能代に出て杉沢で薬草を採り、熊野神社に参拝し、杉沢の泉岩館の山々を記録している。白瀑神社尼子の不動尊に詣でている。岩館の浦で笛滝には2度訪れ絵を描いている。

菅江真澄遊覧記|1807年(文化4年)「雄賀良能多奇」おがらの滝

1807年(文化4年)3月、岩舘の浦(八森町)岩館の笛滝を海から眺め、三内に上陸する。修験宅蔵院を訪ね、白瀑を訪れ滝の上からスミレを写生する。

本館では武田氏の悲話を聞き位牌を眺め涙した。
新屋敷では中国まで漂流した吉太郎の話を聞く。

目名潟(峰浜村)に泊り雄山権現では珍しい獅子頭と川を渡った所にある板碑を記録する。水沢川上流の手這坂を見て「桃源郷」と評価し、大久保台、鳥形、強坂、上強坂、横内、河内、石川を過ぎ、(能代市)常磐、わかし湯で賑わう大柄を経て、大柄の滝(おおがらのたき)を遊覧。この本の銘とした。

岩坂(二ツ井町)で一泊し、梅内の和光院を見て、切石で米代川を渡る。富根で昔は仁井田、鶴形、塩千田が皆海であったという話を聞いた。5月能代から金光寺を経て豊岡の藤の井権現に参拝する。女達子から長面の長伝寺に泊り、風俗を記録する。

さらに、鹿角郡の温泉に行こうと、能代を旅立った、(鷹巣町)では般若院英泉のこと、大館では蝦夷地警備のため兵士で一杯であったことを記録している。さらに長木川をさかのぼり、小雪沢の関所を越え、雪沢から鹿角郡(狭布郡)に入る。
(菅江真澄遊覧記3 内田武編訳を参照)

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