享和元年(1801)11月4日早朝、それまで滞在していた津軽藩の深浦(青森県深浦町)を多くの歌仲間や竹越氏に見送られて真澄は秋田にむけて旅立ちました。
別れの歌会で詠んだ歌です。

わが袖におつるなみたの玉かしはかかるなさけをいつわすれへき
(また何月何日に必ず会いましょうと約束しても、やはりわかれはつらいものです。ほれ、こんなに袖が涙にぬれていますよ)

多くの馴れ親しんだ友人たちが送別の宴をもようしてくれたと記述しております。菅江真澄のような旅人が、縁もゆかりもない土地に滞在でき、人々に歓待された理由の一つは、歌(和歌)詠みに優れていたからだと考えられています。また一般庶民には、本草学の知識を施したり、手習い(習字)等の指導していたからでしょう。深浦は北前船の寄港地として栄え町の商人や医師などの有力者、知識人達が真澄の旅立ちを惜しんで和歌や俳句を歌い真澄を送ったようです。

真澄は深浦を発ち大間越街道を南下し、津軽藩領から秋田藩領に入った。
須郷岬(秋田県八峰町)を過ぎると、過ぎると、わずかに枯草があったので馬をやすませた。蔦の沢を通るとすき間もないくらいに枝をそぎ落とした木を掛けている。
鍵懸(かぎかけ)という風習らしい。恋する人のことを思って道祖伸に祈る占いだそうです。真澄は鍵懸(かぎかけ)の風習を図絵で残している。