武田重左衛門と本館城陥落

本館城(もとだてじょう)は、かって秋田県山本郡八峰町八森字倉の沢にあった。

永正年間(1504-20年)には工藤小平祐定という吉野の野武士が八森不動山東に居住したと言われている。
その後、天正10年(1582年)に檜山城主・安東愛季が津軽方面の抑えとして本城を築いた。

天正11年(1583年)6月、天目山の戦いて敗れた武田勝頼の重臣・武田重左衛門が福浦村(能代市桧山)に流れ着き、安東氏の重臣である大高相模守(後の檜山城城代)の知遇をえる。武田重左衛門は大高相模守により本館城を与えられ、この地方を守護することになった。

慶長7年(1602年)、檜山の城主安藤氏が佐竹氏により常陸宍戸に転封され佐竹氏の重臣小場義成が檜山城の城主となった。安藤氏に仕えていた武田氏は本館城に留まりました。
佐竹氏は国替えを機に知行改めを行うが、農民たちの負担があまりにも重くなった。
農民たちは武田氏に何度も上申したが訴えを捨て置いていた。
村人たちの怒りは募り慶長10年(1605年)8月15日浜田村村長の六左衛門は、竹生村(たけうむら)の勘解由(かげゆ)、畑谷村の兵助、牧村隼人という浪人侍、その他2-30人らが協議し一揆を計画した。

慶長10年(1605年)8月18日に武田重左衛門の部下である長田三郎、高間四郎の2人を八森浜田の村長六左衛門宅に招き、2人を酒で酔い潰し殺害、ほら貝を合図に黒い集団140-150人が松明を振りかざし、大きく揺らしながら隊列は三方向から本館城を襲った。
軽い中風の病に侵されていた城主の武田重左衛門は切腹、27歳の息子半三郎は射殺、半三郎の妻お蔦25歳は2児の亀千代、鶴千代八森村湯沢の須藤与治右衛門(すどうよじさえもん)と妻・お米に託したあと、松源院で自害した。

佐竹氏はこれを農民一揆と見放して、一味30人をとらえ、久保田まで引き回し、刑場だった八橋の草生津で処刑した。
首謀者の勘解由と兵助は常盤の秋田史の元に護送し、手足の指を一日1本ずつ切り落としなど残虐な処刑でころされた。

ウイキペディア 本館城(出羽国)を参考にした。

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